プロモティストとは

経営プロモティストの意味

経営プロモティスト

「Singer(歌手)」という言葉はあっても、「Singist」がないように、本当は、「Promoter」という言葉だけがあって、「Promotist」という単語は存在していません。「Consult(相談する)」から「Consultant」という言葉が生まれるのですが、「相談する」のは、中小企業のビジョン実現化のためであり、その「相談」によって、経営に関わる人々の心や考えが変わらないと、行動には結びつかない。そのためには、励ましがどうしても必要になるだろうという考えから、「後押しする」に、一番意味合いが近いのが「Promote」という言葉であると感じ、自分勝手に作ったのが、この「Promotist」という言葉です。だから、「プロモティスト」とグーグルなどで検索して出てくるサイトは、この「経営プロモティスト」サイトだけであったりする訳です。

 

プロモティストのプロモ-ティングサポート

組織が既に確立した大きな企業では、組織そのものの存在が、社内外に信頼感を提供しますが、組織が必ずしも安定したとは言い難い中小企業においては、経営を考える人が、経営者だけでなく、承継者という存在も明らかにされることで、これまでの契約や事業は継続されるという安心感を作り出す、必要で効果的な方法であると考えられています。また、もうひとりの経営を考える人、承継者の存在は、他の誰のためというより、経営者その人の安心感や支えとしてとても重要な意味があるはずです。ただそれは、ひとりが、ふたりになったということなのであり、行く末、承継者自身が、新たな承継者を作り出すにしても、短からぬ時間と労力を必要とすることを予感させています。

経営を考えられるのは、経営者だけと言われることが、その考え方の前提となっているようです。そう言うと、経営者や承継者以外の社員が経営を考えなくて良い正当性を高めるだけのことで、創造性がありません。その言葉の本意を、より正確に、経営の意思決定は経営者その人だけが行う、と捉えるようにして、経営を考えるのは、経営者や承継者だけでなく、社員全員が同じく必要なことであることをもっとハッキリとさせ、日頃から経営をお互いが理解し、考えられる環境を整えることが、組織を強くすることであり、承継者の有無ではなく、組織として、社内外に安心感、信頼感を与えてくれる、よりクリエーティブな発想になるのではないでしょうか。それは前向きというだけでなく、具体的選択肢を広げることや、ビジョンを目指して全員が変わろうとする意識に繋がるからです。

 
考えが変われば、行動が変わる

行動が変われば、習慣が変わる

習慣が変われば、人格が変わる

人格が変われば、運命が変わる

 

 

 

福沢諭吉

心が変われば、行動が変わる

行動が変われば、習慣が変わる

習慣が変われば、人格が変わる

人格が変われば、運命が変わる

 

 

 

ウイリアム ジェームズ

心が変われば、態度が変わる

態度が変われば、行動が変わる

行動が変われば、習慣が変わる

習慣が変われば、人格が変わる

人格が変われば、運命が変わる

運命が変われば、人生が変わる

 

ヒンズー教の教え

 

成功の循環

古人の言葉や、MIT(マサチューセッツ工科大学)の教授ダニエル・キム教授の「組織の成功循環モデル」があり、考え方を変えることで良い循環を持てるという因果関係とその構造が良く理解できます。ただ、その流れを「知る」ことで、考え方を「変える」ことの必要性に気づいたとしても、残念なことに、肝心な、「変える」ための、新しいことのし始めを実際に「行動する」には、日頃より、もっと大きなエネルギーが必要とされています。大きな岩を転がすには、転がし初めが最も大きな力を必要とし、飛行機が離陸する時、車が発進し始める時が最も大きなエネルギーが消費される時となります。経営プロモ-ティングサポートが、相談(コンサルティング)を通して、経営ビジョン実現のために、経営をする人が、自身の姿や様子を変えるための、「あなたの経営」をというより、「経営するあなた」を後押しするサポートであるのは、その最初の「行動する」、最も負担のかかる時期に、テコのように働く道具、あるいは、行動を後押しとして手伝うからです。

 

チームのビジョン、基本的な行動、取り交わされるコミュニケーションの方法、これらがハッキリと理解され、意識できるようになれば、誰でも経営を考えることができるようになり、より活気ある組織として行動できるようになります。行動できるとは、新しいものにも取りかかれることを意味しています。新しいものをし始めるのは、できない、難しいというより、日頃より、力を入れる必要があるということを理解することができれば、今後、チーム自身がどのような変化でも対応できるように変わる方法を考えることができるようになります。プロモ-ティングサポートは、その道筋を一緒に理解するようにする後押しとなります。

 

キャッシュフロー経営サポートとビジネスコーディネーションサポート

経営を、おカネの視点から捉えるのがキャッシュフロー経営サポートで、人や人と人の関係という視点からのサポートをビジネスコーディネーションサポートと呼んでいます。

サポートサービスの種類なのですが、同じ経営を視点を変えて捉えているだけで、内容としては相互に連関しますし、大枠としての捉え方は、図にあるように、企業経営と経営者や社員という人のビジョンを目指すために、分かりやすくて、実務に使い安い道具やしくみを使って相談し、「変わる」ことは難しくないが、ただ、少し力を入れてやる必要があるということに気づいてもらい、「行動」まで一緒に手伝うアシスタントとしてのコーディネーションを提供するものです。

 

グローモデルとプロモ-ティングサポート

 

コミュニケーションのPDCAとは

おカネの単位で表現できることを会計として取り扱いますが、経営には、会計上の取引ではない「行動」をとても多く含んでいます。少し視点を変えて、経営を「見えるもの」と「見えないもの」とに分けて概観してみると、以下のような図になります。

経営構造の二面性

古人の言葉から、「考える」を変えることは、行動や運命を変えることにつながることを予感し、「組織の成功循環モデル」から、経営と、個人の思考や行動が、組織というチームの質に支えられることを実感しながら、経営という、人が人のために、特定のビジョンを目指す活動を「見えるもの」と「見えないもの」に大別して、これらを組み込んでみると、経営は、「見える」と思っているものと、「見えない」と考えているものが絶えず混じり合い、影響し合いながら、ビジョンに向かおうとするチームの活動であるということが分かります。

「現状」は、既に発生した「見える」事実として捉えられますが、その事実の背景となる人の想いや考えは、その事実とは異なり「見えない」ことがあります。また、「ビジョン」という未来のことは、まだ、現実になっていないので、実際には「見えない」訳ですが、ビジョンをおカネの単位で裏付け、人の想いとして強く意識され感じられることで、「見える」ようにすることができます。

「見えない」ものを「見える」ように「感じる」ためには、納得という深い理解が必要となります。その納得は、人と人を関係づけるための道具であり、しくみであるコミュニケーションから生まれます。このコミュニケーションは単に聞いた聞かないということだけでなく、お互いが関わり合い、行動に一緒に参加するということで、関係をより深め、意識を強固なものとすることができます。「見えるもの」にする、可視化、評価するために数価化などして利用する道具に「マネジメントPDCA」が有名であり、もちろん、とても有効なしくみであると思いますが、もうひとつの「見えないもの」と考えられる、人と人の結びつきなどについては、ビジョンを目指して、お互いがより強い意識で結び合う道具として「コミュニケーションのPDCA」を提案しています。

 

コミュニケーションのPDCA

  • P: Presentation       言って聞かせて
  • D: Demonstration      してみせて
  • C: Communication     させてみて
  • A: Acceleration      誉めてやる

 

参加型セミナーのワークショップという形式や、一般的にOJT形式と言われる、業務に携わる中で実務を教習し、習得する方法も、砕いてみれば、このプロセスの繰り返しを意味しているのではないかと考えられます。和訳の通り、この言葉のオリジナルが、生死を共にする上官と部下との間で唱えられるようになったという背景から想像すると、チームのメンバーを一刻も早く鍛え、実戦力として、配備できるようにすることが平常時より強く求められる場においてさえ、組織と個人との関係を深め、「考える」人を、ビジョンを目指して「変える」具体的な方法として選択されていたという迫力を感じます。「そういう場においてさえ」でなく、「そういう危急の場であるが故に」と捉えられるなら、そのしくみが如何に実効的なものであるかが、より強く感じられるでしょう。

 

  K2インターナショナル会社案内

 

 

 

プロモティストの覚え書き

不変なものはないということ

人の歴史は、不変なものはないということを教えてくれる、ひとつの見方となります。
手元の資料を開くと、人の文明の発祥は、紀元前3500年ごろのメソポタミア文明と記されており、また、ウィキペディアを閲覧すると、紀元前7000年から紀元前5000年までの間に、黄河流域に、新石器時代の裴李崗文化 (はいりこうぶんか)が存在していた、という記述をみることができ、現在の西暦2017年を足すことで、文明が、およそ5500年から9000年の歴史を持つと概観することができます。また、ヒトの存在の時間はどうであろうかとみることで、旧石器時代は約200万年前であったとされていることを知り、歴史のスケールが、さらにもっと大きくなることになります。現在との対比を思うだけで、この間、人は絶えず進化し続けてきたことが想像されます。

地球は、24時間で1回転し、月の満ち欠けに29.5日を要し、太陽の周りを365日+1/4日をかけて1周しているそうです。絶えず、動き、自転しながら、また、太陽の周りを動き続けています。1965年以降の研究で、宇宙は、137億年前のビッグバンによって創造されたと考えられるようになりました。宇宙のどこかの星の大爆発がきっかけとなり、薄いガスやチリが大きな渦を作り、ゆっくりと縮み始めたことで、太陽系がおよそ50億年前に、地球は46億年前に誕生したと考えられています。太陽系を含む銀河系には2000個の星があり、そのような銀河で、観測可能なものが1000億個あると言われます。無数の星の集まりが無数にあるという訳です。

星にも寿命があると言われます。自ら輝くことができる星を恒星というそうですが、その恒星のひとつ、太陽にもいつか死が訪れます。太陽の寿命は100億年と見積もられており、46億年ほどは経過しているので、55億年ほどの「余命」であると言われます。寿命がくれば、太陽は爆発し、白色矮星、そして、ブラックホールになると考えられています。

これら、人の歴史や宇宙物理学などは学術的なものであり、実生活とは関係ないと考える傾向がありますが、これらの「ストーリー」から、実生活にも大きな意味を持つものがあることが分かります。それは「時間」であり、時間の経過に伴い全てが変わっている、つまり、「不変は存在しない」という事実です。スケールを変えると人の歴史そのものは、ある「瞬間」にしか見えませんが、「時間」は短時間、長時間に関わらず、いつでも、どこでも同じ作用を持ちます。それは、研究者が「時間の矢」と呼ぶように、時間は過去から未来へ向けて、一方向にしか進まない性質のもつと考えられることを言います。そして、人だけでなく、地球や太陽も、宇宙にある全ての星が、絶えずお互い影響を受けながら変わっていき、不変というものがないと考えられています。これを、変わるものがあるから時間が存在するし、時間がある限り不変のものは存在しないと言い換えることができるのではないでしょうか。

全く変わるものや影響し合うものがなくなる時、時間がなくなり不変の世界が訪れるのでしょう。それは、生きるというものが存在しない世界なのだろうと思います。

 

日本人が世界の非常識を持つと考える理由

災害時に戒厳令を敷く必要のない国

2011年3月、私はまだインドネシアで活動していましたが、数日間、数時間を、あるホテルのロビーでお客さんと一緒に過ごすことになっていました。あの悲報を聞いたのは、ロビーにある大きなモニターを通してのことでありました。
私が日本人であることを知ると、言わずにはおられないのでしょう。私のようなものにさえ、その場にいた各国の人々が声をかけてきます。そして、被災後、残ったスーパー前で行列を作って静々と開店を待つ人々が画面に映し出されると、その場にいる人々の間にどよめきが生まれました。

「我が国では、軍隊がいないと略奪されるだけだ!」

「ウチだったら、誰かカネを持つ者が品物を全て買い付け、高値で売りさばこうとするに違いない!」

ハリケーンが来たり、災害が発生すると毎回、必ずと言って良いほど戒厳令が敷かれていることを聞いたりしているので、それらが、それぞれ実感から叫ばれる言葉であろうと感じていると、ある一団が、私に回答を求めてくるのです。

「なぜ、日本人はこういうことができるのか?」

咄嗟のことで、返答に窮して思ったことは、日頃持つ質問を、逆に投げかけてみることでありました。

「日本がかつてエコノミックアニマルと揶揄されたのは、多くの日本人が特定の宗教というものを持たぬように見えるからでしょう。然程に、日本において、決まった宗派を明らかにしたり、その宗派の人々と過ごす時間を進んで持とうとか、一緒に祈るということは、家族であるかないかに関わらず、あまり多いことではありません。新年には神社に群がり、葬式は仏式で行い、そして、結婚式は教会でウェディングドレスを身につけるという人々が少なくない国なので、宗教を持たないというように見られても仕方のないことと思いますが、教えてほしいのは、私の方です。お聞きしたり、拝見する限りでは、キリスト教徒の人もムスリムの人も、多くの人が、毎日、何回もお祈りをし、毎週集まって共に賛美歌を歌い、一緒にお祈りをする敬虔な信者を多く持つ国々で、なぜ、災害時にはほとんど毎回戒厳令が敷かれ、略奪を防ぐ必要があるのでしょうか?なぜ、そういう機会に、自分だけひと儲けしようとする人が出ると思うのでしょうか?皆さんが言う宗教とはどういうもののことを言うのでしょうか?」

思いもよらぬことだったのでしょう。聞いた人々は怪訝な顔をしていましたが、何やら相談をし始めたようです。しばらくすると、私が代表として回答すると言わんばかりの人が、やはり、あの言葉を使って回答してきたのでした。

「日本がサムライの末裔であるということだろう」

 

 

あるべき姿で生きる人が本当にいると見られること

インドネシアで活動しているある日、台湾からのお客さんを迎えたことがあります。知らずに話し合ったら、日本の方と思い込んでいたであろうと思うほど、ナチュラルな日本語を話す人でした。
とても気さくな人で、商談というよりは、遠方より友来る、というような和やかな対話を持つことができ、自然に一緒に晩酌を交わすこととなりました。

とは申しながら、お客さんであり、また、私より10歳か20歳は年上の方であるという意識が片時も外れることはありませんでしたが、お話が上手というか、とても、対話するのが楽しいお方であったので、ずいぶんと過ぎたことを話してしまったと後でいささか後悔したりしたものです。

いろいろな話題がある中で、とても印象深く、その後の私の考え方に大きな変化を与えてくれたお話しはこんな対話の中で得られました。

「ところで、あなたは、私が小さい頃、おばあちゃんやおじいちゃんに、どんな風に言われて育ったか知っているだろうか?」

話題が方々に移るのに、後れないよう意識していたものの、あまりにも突拍子もない、新たな話題提供であり、言葉が出ないのを笑顔でごまかそうとしたもんです。

「いや、知る訳はないよね。面白い話しだと思うので、教えて上げよう。あのね、私は、おばあちゃんに、いつも、お前も大きくなったら日本憲兵隊の隊長さんのようになるんだよと言われて育てられたんだよ」

「私は、おばあちゃんが尊敬する憲兵隊隊長さんがどういう人だったかは実際には知らないが、台湾で少なからずの人が、日本人はすごいと思われる時、すごい、立派、流石などという言葉では足りなくて、どうしても、サムライという言葉を使わざるを得ないことは知っている。日本人全てがサムライである訳ではないことも知っているが、日本の人の中には台湾の人、中国の人、もちろん、欧米の人々とも違うスゴイ人がいると感じる時、サムライという言葉を使うのだと思う。あなたはサムライの国の人だし、サムライに出会ったことはないかもしれないが、覚えておいても良い話しだと思うよ」

 

 

プロモティスト個人の理解

サムライという人は、武士道を体現する人であると理解してよいと思いますが、その武士道を戦闘員としての心得や思考体系としてでなく、日本の道徳として、しかも、日本以外の国の人々に伝えようとした、新渡戸稲造先生の「武士道」という書があります。原文は英語で記されていて、私自身は、その和訳を対訳としたものを読んで理解しようとします。私がとても驚いたのは、「武士道」の解釈そのものというより、新渡戸先生が最後の章の最後のページに記した「予感」にあります。

「武士道は、一個の独立した道徳の掟としては、消え去ってしまうかもしれない。・・・その香気は、人生を豊かにして、人類を祝福するであろう。100年の後、武士道の習慣が葬り去られ、その名さえ忘れられてしまう日がきても、その香気は、「路辺に立ちて眺めやれば」目に見えない遠い彼方の丘から、風と共に漂ってくるであろう。・・・」(「武士道」新渡戸稲造著、須知徳平訳、講談社バイリンガル・ブックス)

「武士道」が上梓されたのは、1900年です。つまり、「100年の後」とは、今日を指しています。新渡戸先生のこの文章に出会った時、子供が誰にも知られない秘密の場所で捜し物をみつけたように、私はとても嬉々としました。

 

 

不変なものがない世で、不変なものを持とうとするということ

現代は、ビジネス、マネジメントなどのカタカタ英語で表わされるように、より理論的、科学的であると感じられる欧米の経営理論などが盛んに採用される時代です。しかし、道徳を、確固とした宗教観や高邁な理論の理解がなくとも、実際の行動として表せる人々や、財産や地位などに関わらず、ひとりのあるべき人としての姿そのままで行動し生きる人が、他の人に大きな驚きを催させ、共感を抱かせていることを知ると、経営も、また、人が人のために行う活動である限り、理屈や理論がなくても良いと言うことではありませんが、より考えられるべきは、その経営をする人とチームの意識や矜持(ミッションを持つセルフイメージ)の方ではないかと考えたくなります。

「宗教とはどのようなものなのか」については、お釈迦様がお迎えにくるまで分からないことであろうと感じていますが、少なくとも、経営においては、宗教に似ているかも知れないが、宗教とは異なる「あるべき姿」を思い描き、それを絶えず持ちながら、それを目指すという行動が必要であり、望ましいと捉えられるのだと考えています。しかし、その「あるべき姿」が特定の個人だけが望むものではなく、「三方良し」という言葉の基になった「買手良し、売手よし、世間良し」という近江商人の家訓の通り、利害が一致しないと思われている人々の共感を得るものでなければならないという条件がつくことに、経営が、やはり、無機的なものでなく、とても有機的なものであることを再認識する思いです。

現在の科学が不変なものはないということを教えてくれています。不変なものがないという感覚に、個人的には、とても仏教的なものを連想します。すぐに思うのは「いろは歌」です。

 

いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

 

こう記し、その右端を縦から読むと「咎なくして死す」となり、これは、四十七士を称え、時の政治を揶揄するための暗号として作られた・・などということをしばらく信じ込んでいた時期がありましたが、かなを一度ずつ、重複しないように使って、このような歌が作られたことの驚きは何度も反芻します。

 

色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず

 

いろは歌には、不変なものはないことがはっきりと謳われ、「はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい」(ウィキペディア「いろは歌」より)と言っていますが、それは、自分勝手な夢を見てひとり酔うなと言っているのであって、夢は共に見るべき人があり、酔うべきは古人先哲の言葉や見識であることを忘れてはいけないと言っていると捉えたいと思います。

「三方良し」「浅き夢見じ  酔ひもせず」・・・不変なものはないということを理解しながらも、不変に考え続け、いつも心すべきことがあるのを伝える日本の言葉は、ビジョンを忘れてはいけないことを諭しています。一方、自己保存本能故なのか、人や組織は、特定の成果などによって、慣習や常識を固定化して、不変のものを作ろうとし、また、不変になろうとすることがあります。このどこか矛盾するように思える考え方やしくみが人生や経営の課題になっています。いえ、それが、経営プロモティストの挑戦する対象、というべきかもしれません。

 

 

Scroll to top